思考力でテストから逃げよう

  • 2019.01.30 Wednesday
  • 21:36

こんばんは、一年の白土です。投稿がギリギリになってしまったことをお詫び申し上げます。何せ怪我明けでフォーム矯正中なので書くことがあまりないものですから。とはいっても短すぎる文章も自分としては気が引けるので、求められてもいないのにまた一昔前の提言に関する今の自分の解釈をつらつらと書き連ねていく次第なのであります。皆様お忙しいでしょうからお暇なときに目を通してやってくださいませ。

 


 

「波」。ボート部なら一度はいらついたことのある波。波がなぜ発生するのか考えたことはないだろうか。

「正しい漕ぎ」。毎日のようにいわれている言葉。日々試行錯誤し追い求めているもののはずである。

 


 

ある日、波についてある科学者が流体力学について書かれた標準的な論文を参照した。曰く、外力p'yyとp'xyがe**(ikx+at)の倍数である場合(ただしk,aは定数)方程式によりAとCが求められるしたがって式(9)によりetaの値は......などと2ページにわたって書かれていた。結局理解できたのは時速0.8km以下の風では水面に波は立たないということである。また時速1.6kmになると表面は表面張力波による細かい波形に覆われるようになるが、風が収まると同時に波は消える。そして時速約3.2kmにおいては重力波が発生するということくらいのものだ。最後に著者は控えめにこう締めている。「我々の理論的研究は波形学の初期段階について少なからぬ洞察を与えるものである」と。

 

別な日に同じことについて考えたとき、先ほど述べた論文よりもわかりやすい文章に出会った。今度はその本の方が彼の気持ちに合っていたのである。曰く、『風向きが変わり水面がさわさわと笑う。色鮮やかな空に日がな一日照らされ輝いている。霜が降り踊っていた波に静寂が訪れる。愛らしいざわめきが静まる霜は白く完全なる栄光。凝縮された輝き、開けた空間、平穏の光を夜空の元に残していく』。魔法のような言葉で光景がありありと浮かび上がってくる。自然が文章を通して自らと一つになり、波が日差しを受けて踊る様を見て我々は喜び、また凍てついた湖をいる月光に畏怖するのである。このようなとき絶対的論理主義の考えを持った人々はなぜすべての感覚と化学的知識を持ち合わせ論理を追求する自分がこんなにも感傷的になったのだなどと思うべきでははない。こういった瞬間が我々にも必要だからである。

 

たとえば学者の研究道具のみを頼りにし天秤にかけて測定評価できるもの、数学的記号によってのみ表現できるものだけを相手にしてそれらを超越した世界の偉大さを感じられなくなったら研究者たちは皆視野の狭い発展のない人生を歩んでいくようになるだろう。一方で、言わずもがな前述の文章は幻想である。自然がかの著者に見せた魔術のからくりは以下のように説明できる。空気と風で乱された水面に異なる角度で反射した様々な波長のエーテル震動が我々の目に到達し、光の刺激が視神経を通り脳に伝わった。そして受容した者の意識はその刺激の印象を作っていく。情報自体が少なかったとしても意識はそれを肉付けするのに十分な情報を保持している。そして印象ができあがるとまた意識に精査を受け「なかなかいいもの」になったのだ。この時点で批評するのをやめると文全体の印象のみが意識に残る。説明された情景と相まってそれらを超越した像として浮かび上がってくるのだ。波...日差し...笑い...月光...。結局のところエーテル振動自体に感動的要素はなく、生成された印象全体が我々の喜びにつながるのである。

確かに文章は幻想であった。だったらなぜ無秩序な世界を現実に投影したものに興味がわいたのか。体系化された事実を求めるのに必要なのだろうか?

 


 

こういった話をたどると科学というものが性質として身の回りの側面しか表現できないことに気がつくと思う。科学が表現できるのは世界の「骨組み」にとどまっているのである。それを追い求める過程で事象の現実味は失われていき、同時に心という想像力を否定して最後にこう言うのだ。「君の絵空事よりもっと堅個な原則に基づいた完璧な世界を作ったのに何かが足りなくて『現実世界』を作れない。君の持つ何か一つを我々の世界へ持って行って空想の息吹を与えてくれ。それだけで『現実世界』が誕生する」。隠された真実を見つけるため空想を排除していき結果わかったのは二つは切っては切れない関係にあったという事実であった。そう、心______。空想を作る我々の意識こそ現実性は常に空想の基であることを保障する唯一の存在なのである。人の想像の中に潜在的な現実が映し出されていないかを検証するのは全くもって筋が通っているのだ。

 

アーサー・エディトン(1927) 


 

この文章は20世紀初頭の天文学者である人物の発言です。真実を追い求める側の人間がこのような考え方をしていたと知ると見方が変わりますね。なにより面白いのは「正しいフォーム」という完成されたイデアも我々の幻想なのではないかと思えてくることです。もちろん存在しないといっているわけではありませんが、きっとそれを追い求めている中で自らの心が投影されていき完成していく「守・破・離」の先にあるような物として捉えることも可能なのではないかとふと思ったのです。もし自分のようにフォームがきれいでなくておいてゆかれるような不安感に駆られている方がいたら、自分の今思う漕ぎもボートを進める上で重要な要素だとふと思い出してくれれば幸いです。

 

 

お目汚し失礼いたしました。

 

それではまた。

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  • 2019.08.15 Thursday
  • 21:36
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    コメント
    イデア論を採用するとすれば、完全に正しいフォームなどこの世(現実世界)には存在しないよね。無論俺らが完全に正しいフォームなんて知っているはずもないよね。だって俺らはイデア界で知り得たことはこの世に生を受けたと同時に全て忘れ去ってんだから。現実世界は本質的には不完全だと考えればソクラテスも言うてたけど結局俺らは想起するしかないんじゃねえかな。つまり白土が言うように心が大事だと思うで。完全な真実はイデアを想起する心の中にしかないんだから
    • プラトン
    • 2019/01/31 12:52 AM
    ただし科学は普遍的で再現性をもつので、チーム内での漕法の統一という意味では、「正しいフォーム」も大きな意味をもつと思いました。
    • マックス・ウェーバー
    • 2019/02/01 1:52 AM
    自分のフォーム 他人のフォーム
    あれもこころ これもこころ
    なやむよなあ
    • 相田みつを
    • 2019/02/06 12:00 PM
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